静かな夜にワインとビスマルクを

静かな夜に黙々と考えたことを綴ります。政治とかアフリカとか趣味とか…。

不良論〜「不良社員」の活かし方

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前回は「クソ上司」について書いた。

 

今回は「クソ部下」、つまり不良社員について「不良社員」だった筆者が考察してみたい。

 

会社というものを語る以上、「不良」とされる人たちが出てきてしまう。日本では空気を読まない社員、その会社では常識とされることを疑う社員なども「不良」として認められてしまうので一概に定義するのは難しい。強いて定義するなら「みんなと違ったことをやっているやつ」ということになるだろうか。

 

日本社会はとにかく「不良」というレッテルを貼りたがる。ちょっとこいつ変だなと思ったら「不良」認定されてしまう。「不良」と言及されなくても「ヘン」なやつというレッテルで差別化したがる。差別化して自分の優位や「ふつう」さを証明したがるのだ。正直、これはナチスの人種政策となんら変わらない。「お前たちはアーリア人ではないから劣等人種だ!」と。こういうレッテル貼りによる「ふつう」の肯定を一刻も早くやめないと日本を救うような人材は出てこないだろう。

 

会社も一緒だ。

 

「ふつう」と呼ばれる人たちだけ揃えば、茶坊主のようなゴマすりや上の言うこと絶対の兵隊君しか生まれない。

 

日常の業務をこなすだけならそれでいいのだろう。

 

しかし、会社組織がひとたび窮地に陥った時に茶坊主や兵隊君では会社は救えない。これまでの環境で業務を遂行することでしか能のない人たちなので、環境が変わることについていけない。

 

組織を救うのは「不良」とされるちょっと変わった人たちだ。組織が違った外部環境に置かれ硬直状態に陥った時、「ヘン」とされた「不良」たちならアイデアを出すことができる。会社組織がたちいかなくなるということは、「不良」がこれまでおかしいと思っていた環境がやっぱりおかしかったことが証明されたということだからだ。

 

これまでの環境に違和感を感じていた人たちなら、何がおかしいのか分かる。茶坊主や兵隊君はこれまでの環境の何がいけなかったのか分からない。

 

いつの時代も危機を突破してきたのは「変人」と言われる人たちや「たわけ」と言われてきた「不良」たちなのだ。「不良」だといわせておけばよい。「不良」の真価は有事の時にこそ証明される。今がその時ではないだけだ。

 

信長もアインシュタインも当時の人には「変人」とか「たわけ」とか言われてきた。それでも負けなかった。磨くべきは自分。信じるは自分の信念。「不良」だと言われたらトコトン突き詰めてやればよい。

 

「不良」が時代を切り開き、それに茶坊主と兵隊君がついてくる。

 

腐らず、爪を研いでほしい。

 

そして、会社はこういう「不良」こそ大事に温存しておかなければならない。これまで散々いたぶってきた「不良」たちに救われる日はいずれくるのだから。