静かな夜にワインとビスマルクを

静かな夜に黙々と考えたことを綴ります。政治とかアフリカとか趣味とか…。

コンプライアンス委員会は「非国民」のはじまり

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今年は「常識(的)」なるものについて改めて考えてみたいと思っている。

 

巷ではもはや一般的な言葉になったコンプライアンスという言葉がある。筆者はなんでもカタカナにして、さも賢いふりをする日本人の姿勢には非常に批判的だしこの言葉について非常に懐疑的だ。

 

今やほとんどの企業ではこのコンプライアンスの遵守を自主的に義務付けており、コンプライアンス委員会という委員会を設置することで自らの企業活動を倫理的な側面から縛りをかけている。こういうカタカナ語はよく分からないのに分かった気になっているものだ。改めて調べてみた。

 

「コンプライアンス 一般的に法令遵守と訳され事業活動において法律を遵守すること、広くは倫理や道徳などの社会的規範を守って行動すること。」だとされる。転じてコンプライアンス委員会というのは不良社員の取り締まりやセクハラなどの組織内部の倫理観や道徳観を監視する一種のオンブズマンのような役割として設置されているようだ。

 

明らかなセクハラやパワハラ、社内のいじめなどには厳正に対処することで職場環境を適正化するのは重要なことだと思う。しかし、このコンプライアンス委員会が錦の御旗に掲げているのは倫理観や道徳というなんともいかようにも解釈されてしまう曖昧なものだ。

 

この「倫理観や道徳」というのが何よりの曲者である。

 

日本人は人と違うということに極端に反応する。道徳や倫理観というのは圧倒的多数の「常識」とされるものの積み重ねであり、圧倒的多数が正しいと考えていることだとも言える。極論を言えば、人と違ったことをしていることが道徳や倫理に反するとされることになる。数は力なり、まさに多数決の論理だ。道徳や倫理観などその都度、解釈が変わっていくものだ。江戸時代は皆がまげをつけるのが「常識」だった。今やまげを結っているのはお相撲さんくらいのものだ。

 

道徳や倫理観には恣意性が介在するといってもよい。さらに言えばコンプライアンス委員会を運用するのも人間なのである。人間のあるところに恣意性ありと言ってもよい。

 

前述のように明らかな「悪」(ここにも明らかな「悪」とする恣意性が存在するわけだが、本稿の主題はコンプライアンス委員会の役割を考えることに主眼があるのでご容赦願いたい。)、つまりパワハラによる職場環境の悪化や社員による殺人などの犯罪には厳罰を下せばよい。

 

ところがこの倫理観や道徳に反するという決定は解釈次第でいかようにも下せる。明確な基準がないものについては特にである。

 

先日、居酒屋でサラリーマンらしき人たちが上司の愚痴を魚にくだを巻いていた。聞けば「アホ部長は自らで意思決定できないしょーもないやつだ!」とのこと。よく見る日常の居酒屋風景である。

 

この話を隣で上司の社内の同期が聞いていたとしよう。この上司の同期がコンプライアンス委員会に通報したとする。通報を受けたらコンプライアンス委員会はまず調査に入る。コンプライアンス委員会を構成するのは通常第三者、つまり会社とは何の利害関係も持たない人だろう。しかし、この第三者が部長をアホ呼ばわりし、あまつさえしょーもないやつ呼ばわりするとは、なんて道徳的に問題のある社員だと判断すれば、酒の席で上司の愚痴を言っていた社員は処分されてしまうことになる。

 

コンプライアンス委員会の良心は第三者の道徳・倫理観となる。

 

「倫理・道徳に照らし合わせて問題」と恣意的に決めつけ、社員を一方的に処分を下していく姿は「非国民」を乱用し集団がやがて崩壊に向かう戦時中の日本を彷彿とさせる。実に気味が悪い。

 

コンプライアンスとは一体誰にとってのコンプライアンスなのか。明確な法令違反はともかく、コンプライアンスを構成する「常識」など普遍的なものでないことなど常識なのだということに気付くべきだ。

 

こういうご時世、都合のいい解釈の犠牲にならないよう普段から「常識」は疑ってかかるという姿勢が重要だと思った年頭であった。