静かな夜にワインとビスマルクを

静かな夜に黙々と考えたことを綴ります。政治とかアフリカとか趣味とか…。

日本型「カイギ」は死刑執行と一緒

先日とあるOLとランチをした。転職して2社目なのだが、もうそろそろ辞めることを検討しているという。

聞けば、あまりに意味のない会議が多すぎて仕事にならない会社なのだとか。このOLは元々新聞記者で今はウェブ通信の企業にいる。

なぜ日本の会社は会議が多いのだろう。やれ業務連絡会議だの、やれチームミーティングだの、会社組織が大きくなればなるほど会議の回数が増え意思決定が複雑化されてゆく。

 

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外交などの手法でも用いられるのだが、先送りにしたい議題がある時、当事者を増やし意思決定を複雑化させ交渉を難航させる。

筆者はかつて石油開発業界に身をおいていたが、石油の権益交渉ではイランなどタフな相手は往々にしてこうした手法で日本勢を籠絡してきた。

しかしわが身を振り返れば、日本人は知らずのうちにこうして会議を複雑化させ決められない、終わらない会議を延々とやることが得意な民族になってしまった。

会議はシンプルなものだ。大別すればブレーンストーミングするものか、意思決定をするためのものか情報を共有するものかおよそ3つしかない。

集まるということの意味を考えると会議の意味も正確に捉えられるはずだ。

集まるということは衆知を結集するということ。だからブレーンストーミングでアイデア出しをすることになる。

職務権限上、意思決定ができる人たちが集まるということは会社の経営に関わる重要な案件を決めることだ。

集まるということはその時間を共有し、1度に同じ情報を共有するということだ。もっともこの3つめについてはメールなどでも共有できるので最近この手の会議が最も時間のムダだろう。

筆者がサラリーマン時代の会議など8割方ムダだったと言い切れる。あまりに意味のない会議が多いので、なぜこの人たちが集まるのかを考えてひとつの結論に達した。

意味のない会議は責任感の共有だ。死刑のボタンを複数人で押す作業に似ている。みんなで押せば怖くない。後々責任の所在を不明確にする上で最も好都合なのだ。

何か問題が起きた時に意思決定をした人たちは部署異動しており、残された人たちが資料を探りながら「これは誰々さんが部長の時だねー」などと話し合うのが関の山だ。

こうしているうちに責任の所在が不明確な意思決定が横行し、気がつけばとんでもないことになっている。かつて大企業と呼ばれたところですら今やどうなるかわからない。SHARPのような会社ですらあんな事態に陥る時代だ。

会議のあり方を考えることからサラリーマンの働き方を考えてみるべきだ。会議が仕事のための仕事を量産し社員を疲弊させてゆく。

経営者の友人がよく言うのだが、サラリーマンの仕事は仕事ではないという。主に資料作成だと。

サラリーマンが本当に仕事をできるようにならない限り日本経済が復活することなどないだろう。サラリーマンが人材としての価値を高め、真の意味で仕事をする。国際社会の中で日本が生き残ってゆくためには会議のあり方から考えてみてはいかがだろうか。