静かな夜にワインとビスマルクを

静かな夜に黙々と考えたことを綴ります。政治とかアフリカとか趣味とか…。

アフリカでビジネスをするということ。

アフリカでビジネスをするとき真っ先にぶつかる壁がある。

 

それは数字である。

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日本でビジネスを始める際、マーケットの規模などはインターネットなどで用意に収集することができる。

 

アフリカではその基本的な数字は存在しない。

 

まさかそんなことがあるはずがない。政府があるのだから数字くらい存在するだろう。

 

そうお考えの読者もいらっしゃることと思う。

 

確かに政府には統計局のような部署は存在するのだが、仕事もおおまかで実態とはかけ離れたデータしかもっていないのが実情だ。援助機関やアフリカのビジネスマンはどうしてもデータが必要なときは国連などの数字を使う。もっともこうした国際機関の数字は5年前のものなど最新のデータがそろうことはなかなかない。

 

もちろんアフリカも54カ国の国で構成され、成熟度合いも千差万別だ。国によっては正確なデータが補足できるところも存在するが、筆者の活動する西アフリカでは正確な数字に出会うことはなかなかない。

 

アフリカではデータ集めも一苦労なのである。

 

だからアフリカにおいてビジネスの基本は「現場を歩いて数字を拾うこと」にある。日本にいるとこんな足で数字を拾うような作業は体育会系の発想のようで敬遠されるかもしれないのだが、これが実にいいのだ。

 

足で数字を拾うようになると、思いの他まわりの様子が見えるようになってくる。数字現場の生活がリンクすると社会は循環していると気づくようになる。

 

それはどういうことか言えば、実際に貨幣が身の回りの生活で循環している様が見えるようになることだ。

 

先日、西アフリカのベナンにおいて友人が床屋に行くというのでついて行ってみた。友人はその床屋で500CFA(日本円で約100円)を支払ったのだが、帰り際その床屋はそのお金を元手に店の前を通りかか野菜売りのおばさんからパイナップルを買っていた。

 

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支払った額は日本円で20円とかその程度のものだったと記憶しているが、ああこうして通貨というものは流れて行くのだなぁということを改めて感じた。

 

普段日本で生活をしていると特段金の流れなど気にしなかったものだが、今自分の手元にある通貨もかつては別の誰かのところにあって、これからまた誰かの手に渡るのだなぁとしみじみ感じた。

 

通貨というのは労働の対価とか価値を等価に交換する際の尺度だとかいろいろな説があるが、根本的には人間同士をつなぎとめているのではないだろうか。

 

お客様は神様ですという言葉があり、松下幸之助翁らが顧客の重要性を説いたのはこの通貨を循環し人間同士をつなぎとめていることに気づいたからに他ならない。

 

現場で数字を拾うことの重要性をアフリカは教えてくれた。

 

 常識すらも疑ってかかること。前提条件が覆る毎日は私たちの社会を観察する機会を与えてくれる。