新三本の矢の的は民主党だと気付くべき
アベノミクス新三本の矢が発表された。
これを見てあれ?って違和感を持たれた方も多いと思う。今回の三本の矢で注目すべきは「介護離職をゼロにする」という矢と「希望出生率1.8」という矢だ。
介護分野と子育てといえばこれまで民主党のお得意とする分野だった。子ども手当や介護報酬の改定など女性議員を中心に時に自民党に揺さぶりをかけてきた。社会保障・福祉政策の民主、経済政策の自民の印象を与えて政権交代にすら貢献してきた。
ところが今回の新三本の矢では自民党がこれらの政策を打ち出してきた。もちろん少子化や介護の問題は今後も継続的に我が国にとっての課題となるというのも理由のひとつだろう。
しかし、事はそう単純で はないと筆者はみている。
介護離職をゼロにするという方策は未だ示されていないが、介護離職の理由のひとつは低賃金重労働にある。こうした事態を改善すべくこれまで何度か介護報酬の改定が議論されてきた。平成21年には介護職員処遇改善交付金が措置され、平成24~26年には財務省との度重なる折衝を経て介護報酬が1.2%、月額にして1万5千円の増額を行ってきた。今回もこの介護報酬の増額が議論されることは明白だが、この増額が民主党政権時より大幅なアップになれば民主党はこれまでの福祉に強い民主という看板を下さざるを得なくなる。
そればかりではない。かつて掲げた子ども手当増額の根拠ももともとは育児にかかるコストに補助を出し育児環境の向上と出生率の向上を狙ったものであ った。
こうした福祉や子育てに対する大がかりなバラマキが今後実施されれば確実に従来の民主党の支持基盤である福祉業界は洗いざらい自民党の軍門に下ることになるだろう。
今回の自民党総裁選で再選した安倍総理の任期はあと3年。この3年でこれまで自民党を苦しめてきた野党勢力を一気に壊滅させないとも言い切れない。特に安倍総理は政権交代の遠因を作った小泉氏以降の3人の総理のうちのひとりで民主党にはこれまで辛酸を舐めらせられてきた。
野党、特に民主党は今回の三本の矢は実は民主党という的に向かって射られた矢であることを自覚する必要がある。
やれ政界再編だ、やれあちらが偽物だなどとウロウロしている場合ではない。国民が政党に求めるのは選択肢としての役割である。その役割を見失った野党が目指さなければならないのは初心に返るという極めてシンプルな思考だ。選択肢のある政治の再来を願ってやまない。
高まるユーロリスク~不確実性の増すヨーロッパの明日~
シリア難民の中にイスラム国が戦闘員をまぎれこませヨーロッパに潜入させたとDaily Expressなど複数の報道機関が取材により明らかにしている。
難民を装って潜入した戦闘員の数は4,000人との報道があるが正確な数はいまだに把握できていない。
ヨーロッパは波乱含みだ。
先月英国において、第二次世界大戦の終結式典でエリザベス女王の暗殺を狙った爆弾テロが未然に防がれたばかりである。
これを受けて英国のキャメロン首相は7日、議会における演説でこの12ヶ月の間に警察や特務機関(主にMI5の対テロチーム)によって未然に防がれたテロが少なくとも6件あったことを明かしている。
ヨーロッパ本土に目を向けてみれば昨年末、世界を震撼させたシャルリー・エブド誌を狙ったテロ事件が記憶に新しいが、あの問題の本質は
①ヨーロッパ全体に武器が拡散してしまっていること
②犯罪に手を染めるものが容易に武器にアクセスできるような体制がヨーロッパ全体に構築されつつある
ということだった。
事実、欧州委員会の発表している違法武器に関する報告書(2013年)によれば90年代以降西バルカン地域や旧ソ連諸国からヨーロッパに武器が流入していることが指摘されている。
シリア情勢の不安定化やリビアの崩壊によってさらなる武器の流入が進んでいる可能性も指摘されている。
一説にフランスの国内だけでも2万丁の銃が出回っているとされる。
シャルリー・エブドーの事件で実行犯はベルギーの古物市場で武器を調達したとされヨーロッパ域内での武器の拡散は見過ごせない水準にまで達している。
ご存知のとおり武器は道具だから使う人間がいなければ脅威にはならない。
しかし、武器の拡散が進むヨーロッパにおいて本当にイスラム国の戦闘員が大量に潜入したとなると由々しき事態である。
ヨーロッパの情勢からしばらく目が離せそうにない。
アフリカでビジネスをするということ。
アフリカでビジネスをするとき真っ先にぶつかる壁がある。
それは数字である。
日本でビジネスを始める際、マーケットの規模などはインターネットなどで用意に収集することができる。
アフリカではその基本的な数字は存在しない。
まさかそんなことがあるはずがない。政府があるのだから数字くらい存在するだろう。
そうお考えの読者もいらっしゃることと思う。
確かに政府には統計局のような部署は存在するのだが、仕事もおおまかで実態とはかけ離れたデータしかもっていないのが実情だ。援助機関やアフリカのビジネスマンはどうしてもデータが必要なときは国連などの数字を使う。もっともこうした国際機関の数字は5年前のものなど最新のデータがそろうことはなかなかない。
もちろんアフリカも54カ国の国で構成され、成熟度合いも千差万別だ。国によっては正確なデータが補足できるところも存在するが、筆者の活動する西アフリカでは正確な数字に出会うことはなかなかない。
アフリカではデータ集めも一苦労なのである。
だからアフリカにおいてビジネスの基本は「現場を歩いて数字を拾うこと」にある。日本にいるとこんな足で数字を拾うような作業は体育会系の発想のようで敬遠されるかもしれないのだが、これが実にいいのだ。
足で数字を拾うようになると、思いの他まわりの様子が見えるようになってくる。数字現場の生活がリンクすると社会は循環していると気づくようになる。
それはどういうことか言えば、実際に貨幣が身の回りの生活で循環している様が見えるようになることだ。
先日、西アフリカのベナンにおいて友人が床屋に行くというのでついて行ってみた。友人はその床屋で500CFA(日本円で約100円)を支払ったのだが、帰り際その床屋はそのお金を元手に店の前を通りかか野菜売りのおばさんからパイナップルを買っていた。
支払った額は日本円で20円とかその程度のものだったと記憶しているが、ああこうして通貨というものは流れて行くのだなぁということを改めて感じた。
普段日本で生活をしていると特段金の流れなど気にしなかったものだが、今自分の手元にある通貨もかつては別の誰かのところにあって、これからまた誰かの手に渡るのだなぁとしみじみ感じた。
通貨というのは労働の対価とか価値を等価に交換する際の尺度だとかいろいろな説があるが、根本的には人間同士をつなぎとめているのではないだろうか。
お客様は神様ですという言葉があり、松下幸之助翁らが顧客の重要性を説いたのはこの通貨を循環し人間同士をつなぎとめていることに気づいたからに他ならない。
現場で数字を拾うことの重要性をアフリカは教えてくれた。
常識すらも疑ってかかること。前提条件が覆る毎日は私たちの社会を観察する機会を与えてくれる。
アフリカで帝国主義が継続しているこれだけのワケ
一般的に植民地支配というのは現在では行われていないとされる。教科書の上でしか見ない言葉だと考えておられる読者も多いと思う。
*写真は多くの黒人奴隷がヨーロッパやアメリカに送られた場所西アフリカベナン共和国の帰らずの門。
筆者はアフリカとの付き合いはいよいよ10年を越え、現在は縁あってアフリカにある会社経営に参画しているのだがアフリカでは「植民地主義の終焉」という言葉こそ教科書でしかお目にかかれない言葉である。
そもそも植民地主義のルーツは16世紀半ばの重商主義にさかのぼれる。
この考え方は「貿易を通じて蓄積した金を富とする」という考え方であり、この重商主義が列強による植民地争奪を後押ししたといっても過言ではない。
結果、列強各国は「金」を得やすい工業振興策を優先し、農業が次第に置き去りにされていくこととなる。
工業振興策を優先した列強の工業資源供給地として期待されたのが植民地であった。植民地は工業資源の供給地としての性格もさることながら、工業振興策で後退した欧米列強の農業生産力も補うための役割も期待された。
こうした背景からアフリカをはじめとする植民地ではそれまで存在していた経済からモノカルチャー経済へと再編成が行われ「宗主国に資源を貢ぐ」という体制が構築されていった。
そして1960年代。
多くのアフリカの国々が独立を果たすことになるのだが、宗主国がどこの国かでその明暗は分かれたと言っても過言ではない。
筆者が経営に参画する会社は西アフリカにあるのだが、西アフリカの多くの国はフランスの植民地を経験している。
公用語はいまだにフランス語を使用し、通貨はCFAフラン(セーファーフラン)といって植民地時代と同じ通貨単位だ。(2015年現在で西アフリカ、中部アフリカの14カ国で流通している。)
さらには、西アフリカ諸国の多くでフランス軍がいまだに駐留しているという現実もある。西アフリカではニジェール、マリ、コートジボワール、セネガル、モーリタニア等に駐屯している。)
政府の顧問にフランス人がつくということも珍しい話ではないし、そもそもこのCFAフランの語源自体"Colonies françaises d'Afrique"(フランスのアフリカ植民地)の意でありそのフランスの執念が伺える。
アフリカで植民地が継続しているという理由はこれだけではない。
最も象徴的なのは、アフリカ諸国が独立直後からフランスに対して支払っている植民地税である。
この事実はアフリカ出身のMawuna Remarque KOUTONINという平和活動家が明らかにした。
この植民地税は植民地時代にフランスが建設したインフラに対して支払うというものであり、さらにはベナン、ブルキナファソ、ギニアビサウ、アイボリーコースト、マリ、ニジェールなど14カ国がフランスの中央銀行に自国の預金を預けることを強要されている。
その総額については明らかになっていないが独立後も悲惨な搾取が続く。
なぜフランスはこんな搾取を続けるのか。
フランス第22代大統領ジャック・シラクはこんな言葉を残している。
“Without Africa, France will slide down into the rank of a third [world] power”
植民地はアフリカで今も続く現実であることを忘れてはならない。
日本型「カイギ」は死刑執行と一緒
先日とあるOLとランチをした。転職して2社目なのだが、もうそろそろ辞めることを検討しているという。
聞けば、あまりに意味のない会議が多すぎて仕事にならない会社なのだとか。このOLは元々新聞記者で今はウェブ通信の企業にいる。
なぜ日本の会社は会議が多いのだろう。やれ業務連絡会議だの、やれチームミーティングだの、会社組織が大きくなればなるほど会議の回数が増え意思決定が複雑化されてゆく。
外交などの手法でも用いられるのだが、先送りにしたい議題がある時、当事者を増やし意思決定を複雑化させ交渉を難航させる。
筆者はかつて石油開発業界に身をおいていたが、石油の権益交渉ではイランなどタフな相手は往々にしてこうした手法で日本勢を籠絡してきた。
しかしわが身を振り返れば、日本人は知らずのうちにこうして会議を複雑化させ決められない、終わらない会議を延々とやることが得意な民族になってしまった。
会議はシンプルなものだ。大別すればブレーンストーミングするものか、意思決定をするためのものか情報を共有するものかおよそ3つしかない。
集まるということの意味を考えると会議の意味も正確に捉えられるはずだ。
集まるということは衆知を結集するということ。だからブレーンストーミングでアイデア出しをすることになる。
職務権限上、意思決定ができる人たちが集まるということは会社の経営に関わる重要な案件を決めることだ。
集まるということはその時間を共有し、1度に同じ情報を共有するということだ。もっともこの3つめについてはメールなどでも共有できるので最近この手の会議が最も時間のムダだろう。
筆者がサラリーマン時代の会議など8割方ムダだったと言い切れる。あまりに意味のない会議が多いので、なぜこの人たちが集まるのかを考えてひとつの結論に達した。
意味のない会議は責任感の共有だ。死刑のボタンを複数人で押す作業に似ている。みんなで押せば怖くない。後々責任の所在を不明確にする上で最も好都合なのだ。
何か問題が起きた時に意思決定をした人たちは部署異動しており、残された人たちが資料を探りながら「これは誰々さんが部長の時だねー」などと話し合うのが関の山だ。
こうしているうちに責任の所在が不明確な意思決定が横行し、気がつけばとんでもないことになっている。かつて大企業と呼ばれたところですら今やどうなるかわからない。SHARPのような会社ですらあんな事態に陥る時代だ。
会議のあり方を考えることからサラリーマンの働き方を考えてみるべきだ。会議が仕事のための仕事を量産し社員を疲弊させてゆく。
経営者の友人がよく言うのだが、サラリーマンの仕事は仕事ではないという。主に資料作成だと。
サラリーマンが本当に仕事をできるようにならない限り日本経済が復活することなどないだろう。サラリーマンが人材としての価値を高め、真の意味で仕事をする。国際社会の中で日本が生き残ってゆくためには会議のあり方から考えてみてはいかがだろうか。
リア充としての国会デモになんの意味があるのか
相変わらず国会前や官邸前の反戦デモが喧しい。反戦を叫ぶことに筆者は反対しないし、自民党のやり方がどうとか安倍総理がどうとか言うのも自由だと思う。
しかし、敢えて言おう。国会前のデモなどなんの意味も持たないと。強いて言うなら声を直接届ける程度のものだ。時の政権にとっても与党にとっても痛くもかゆくもない。
彼らの方向性は根本的にズレている。
真に国会で安保法制に抵抗したいのなら、国会の中の議論に加わらなくてはならない。
つまり自分たちの思いを伝えてくれる議員を国会に送り込み、明確に安保法制に反対する政党を応援し国会の中で議論をつくる努力をすべきだろう。なんのためにいつも選挙で政治家を選んでいるかもう一度胸に手をあててみて考えるべきだ。
もっと言えば何曜日に何万人集まりましたみたいなことをやっているのなら反安保法制を旗頭にした政党や政治集団でも立ち上げてしまえばよいのだ。
残念なことにこの国の法律は立法府である国会で決まる。その中で発言する権力があり、審議する機会を与えられるのは国会議員だ。
渋谷で若者が声をあげるのもいいだろう。国会前や官邸前に何万人集結するのもいいだろう。
しかし彼らがいかに声を上げたところでそれは場外試合に他ならない。試合の前にルールを確認しないと勝負にならないのだ。
FacebookやTwitterで流れてくる彼らの反戦は単なるリア充に終わってしまっているのではないのか。
風向きが危ないからといっていきなりデモを始めるのではなくいつもの選挙はこういう事態のためにしているんだということ。ましてや普段選挙にも行かない人が「いてもたってもいられない」とデモに参加していることに違和感をもっているのは筆者だけではないだろう。
低迷する原油価格は混乱の予兆。
原油価格が低迷している。
この記事を執筆時点でWTIの価格は60.33ドル。2015年に入ってから5月までのWTI月間平均油値は、
1月47.60ドル
2月50.72ドル
3月47.78ドル
4月54.20ドル
5月59.26ドル
と推移し60ドルを連続して下回っている。筆者がオイルマンだったという当時は100ドルという数字が軒並み並びこんな低油価な状況は想像だにできなかった。
今回の油価の下落はおおむね2つの見方がある。
ひとつはワシントンで強く流れているという、アメリカとサウジアラビアが手を組み、ロシアとイランの弱体化を狙っているという説。
もうひとつは、ハドソン研究所の経済学者、アーウィン・ステルツァー博士らが主張しているサウジアラビアによる米国シェール産業つぶしとする説だ。
現在のオイルマーケットはサプライショックが起こっている状況でファンダメンタルとしては原油あまりの状況だ。昨年11月27日にウィーンで開かれたOPEC総会ではシェールオイル・ガスの増産が続く状況に関わらず、産油国12カ国は生産量維持を決定。産油国12カ国で合わせて日量3000万バレル。
一方で米国はシェールの恩恵によってこれまで中東から輸入していた日量400万バレルの原油が不要になり、この玉突き原油が世界の原油あまりのひとつの要因となっている。
確かに原油あまりの状況が現在の低油価を主導しているという見方もできるだろう。しかし、ことはそう容易なものではない気がしている。
筆者のオイルマン時代もそうだったのだが日本のオイルマンはあまり国際政治のダイナミズムと原油を連動させて考える習慣があまりない気がする。
今回の低油価は原油あまりというファンダメンタルと先述の説の複合要因だと思う。シェールオイルをつぶしたいサウジアラビアの思惑と、ロシアとイランの弱体化を狙ったアメリカの思惑が一致したというのが本当のところだろう。
さらにいえば現在のオバマ政権は石油業界を敵視しており自然エネルギーを推進してきたことも遠因として考えられる。自然エネルギー推進のために石油業界の弱体化を狙った米国内での”内紛”もひとつの理由だ。
いずれにしても現在の低油値で恩恵を受けるパワープレーヤーが多い現在の状況はしばらく続くだろう。
この低油価でロシア、特にプーチン政権の存立基盤が弱体化してくればロシア国内での政治バランスに大きな変化が生まれることは間違いない。
さらに現在も勢力を伸張しつつあるIS(イスラム国)も原油を収益の柱としており彼らを刺激する可能性も十分にある。
原油の値段という表面にとらわれず、国際情勢を分析することこそ原油価格を占う近道だと思うのは筆者だけではないだろう。